僕として僕は行く。

旧・躁転航路

彼の話

 人と夢の話をしていて、ふと自分の夢にほとんど父親が出てこないことに気付いた。他の家族はたまに出てくるのだが、父親だけほとんど出てこないのだ。これは、もう僕の無意識レベルで彼の存在を無視しているか、もしくは何か強い思いがあるゆえに抑圧されたものがあって、出てこれない、もしくは出てきても意図的に抹消されているかのどっちかなんだろう。

 父親のこと、別に嫌いではない。いや、かなり語弊がある。嫌いな側面も多い。でも、嫌いなだけではない。彼が優しくしてくれたこともよく覚えているし、彼が教えてくれたことも沢山あって、感謝している部分だっていっぱいある。それでも、彼のことを彼という代名詞で呼んでいても何ら心にわだかまりのようなものがないということが、僕の彼に対する心理的な距離感というのをよく表しているように思う。でも、実際僕らの間には隔たりがある。彼は、彼の中の僕というイメージで僕に接するのだが(それは人は誰しもそうだ)、そのイメージがあまりに家族内で共有されている僕というイメージから乖離していることが、この隔たりの内実なんだと思う。無論、他人は自分を写す鏡だから、彼が僕に抱いているイメージというのは、他の家族とは多少違っていたとしても、それはやはり僕の一つの側面なのだろう。しかし、彼の中にある、歪に理想化された僕のイメージの物語に、僕自身が迎合しながら生きていくのにもはや限界を覚えているのだ。だから、僕の物語の中から彼を締め出そうと考えているのかもしれない。こういう状況は、確かに理想的な状況とは言いがたいだろう。でも今の僕には、それが必要なのだ。こうする他無いのだ。

 彼は彼で沢山の苦労をしている、しかし―。ここまで考えてどうでもよくなる。まあいいや、めんどくせえ。彼はこれ以上僕の所には入り込めない。少なくとも、今は。