僕として僕は行く。

旧・躁転航路

作品が押し付けがましいということに関して

 何か作品のようなものを発表したりするとき、そこにメッセージ性があって、そしてそれが多少なりとも押し付けがましくなると嫌がる人というのが多いけれど、僕はいまいち押し付けがましいことがなんでダメなのかわからないので、だから僕自身のメッセージとかも結構押し付けがましくなっちゃって、それで嫌がられるということが多い。僕はむしろバリバリに自分のメッセージを出してくるタイプのほうが好きで、それによって色々な物が僕のなかで問われ、そして考えられるというプロセスが結構好きなのでそう思えるのかもしれないけれど、純粋に物語的なものとか演出的なものを楽しみたい人びとにとってはそれはノイズなのかもしれない。ちなみに、僕は人間関係においても自己主張はしっかりしたいタイプで、言えば言うほど黙っちゃうみたいなタイプの人間とだとすぐに非対称的な関係性になっちゃうので控えるようにしてるけど、実は僕はみんなと意見をバトルさせたいと思っている。その時の意見とかメッセージって、ノイズなんかじゃなくて、本懐じゃないか。

 でもノイズだとしても、そんなの無視しようと思えば出来るんじゃないかな、とはよく思う。こないだ、アニメ映画のサマーウォーズの感想で、「あれはよいアニメではあったが、よい物語ではなかった」という主旨の感想を聞いて、僕も本当にその通りだと思った。あれは、宮崎駿富野由悠季的な系譜にある「男の情けなさ」と、ぼーっとしてたら可愛い女の子に助けを求められて自分のオタクな側面を活用したら上手く行っちゃいましたみたいな現代的なラノベ的感性とか、あと「家族サイコー!」みたいな、そういうものが雑多に混ざっていて、メッセージ的には割と僕は嫌いで、確かに物語としては良いものであったかと問われれば疑問が残るけど、一方であれはアニメーションとしてはすごく秀逸だったとも思って、僕はそこを見て楽しんでたから別にいっか、という感じになった。だから、僕の人間性ももっとエンターテイメント性が高めたら、サマーウォーズみたいに、メッセージとしては受け入れられないけれど、ポップさやキャッチーさの側面では受け入れてもらえるようになるのかもしれないし、僕にイラッとしながらもそれでも受け入れてくれてる人はもしかしたらある程度多かれ少なかれそういう風な方法を既にとっているのかもしれない。