僕として僕は行く。

旧・躁転航路

正しさと楽しさ

 正しさなんて言うほどの問題じゃなくて、正しいかどうかじゃなくて楽しいかどうかで考えるべきだし、普段からそう思おう思おうと考えているのだけれど、どうしても正しいか否かで考えてしまう思考の癖みたいなのがいつ間にかついてて、悩んだりとか、もしくは色んな解釈の余地があって、その過程を楽しめそうなことでさえも、答えにばっと飛びついちゃって、白けちゃうみたいなことが未だによくある。どうでもいいことなら、ほら楽しもうとか思えるんだけど、そういう風に楽しんでやるのって、実は深刻で、しかもすぐに答えの出せそうにない問題の時こそ大事なんじゃないかと思うので、もっと色んなことを気楽に楽しんでやりたい。

 僕を知っている人びとにとって、これは色んな誤解を招きかねない発言なんだけど、僕は実はかなり生真面目すぎるんじゃないかと思う。色んなことをもっと伸び伸びとやったり、考えたりするような余裕を、もっと心の中にもっていいんじゃないか、とか、そういうことで、特に深刻な課題に関しては、生真面目に考えすぎて身動きがとれなくなるということが実はよくある。自分の器のようなものを自覚して、自分にこなしきれない課題ならば、楽しんでやるか、もしくは誰かとシェアしながらやらないと、今みたいにぶっ潰れてしまう。それじゃかえって方方に心配をかけることになり、よくない。正しさだけで動けなくなりそうだな、ということに関しては、前もって、じゃあ楽しんでいこう、とかんがえられるようにしていきたい。