僕として僕は行く。

旧・躁転航路

フジロックで観たRadioheadのこと

 僕はRadioheadがとても好きです。Last.fmの再生回数1位もRadioheadで、そのうち飽きたりするのかなと思ってるけどやっぱり好きだし、なんとなく聞かなくなってもふと聞いてみるとやっぱりすごくかっこいいし、だいたいこの飽き性の僕が7年ぐらい好きっていうだけで凄いことだと思う。

 生でRadioheadを観たのは、先日のフジロックも含めて3回ある。うち2回は、2008年の来日、大阪中央体育館でのライブ。DVDと同じプロショットアングルで見たかったので、二階席のど真ん中で観てました。だいたい初めて見るミュージシャンは、この位置が空いてるならそこで見ることにしてる。全体のバランスとか、メンバーがそれぞれどういう動きをしてるのかとか、見たいから。で、今回のフジも、そういう風に遠巻きに見れたらいいや、とか最初思ってたんですけど。その2つ前のJack Whiteを遠巻きに観てても、ちいちゃくて、いまいちグッと来なかった。なんか、孤独そうだと思った。もちろん、音は死ぬほどクールなんだけど、この位置で見ると、人間としてのサイズの小ささに気圧されて、音のデカさとミスマッチでようわからんかったから、これからはまあまあ前で見ようと思った。Seven Naiton Armyは、これから出るRadioheadに捧げるよ、と言ってて、ああそうか、もうすぐRadioheadがここに立つんだって思ったり。

 で、Elvis Costelloを観て、そのまま人波に流されるようにして、モッシュピットでRadioheadを観た。大好きなJonny Greenwoodの目の前で、彼らを観た。僕がディスプレイで何百回も見てきた彼らだから、正直、最後までなんだか現実味がなかった。あれはもしかすると超巨大なディスプレイなんじゃないかとしか思えなかった。こんなに素晴らしい人たちが実在するとは信じがたかったし、最後まで信じられなかった。こんなに近くにいるのに、なんだかディスプレイの中にいる彼らと寸分違わない。もしかすると、触れてみて、話をしても、きっと彼らは、僕にとってリアリティのある存在にはならないんじゃないか。いつまでも雲の上の人。そう信じたいとかそう思いたいとかじゃなくて、そうとしか思えなかった。

 だから、彼らと僕の間にあるのは、きっと物理的な距離とかじゃなくて、本当に何もかもの距離が、何億光年もの隔たりがそこにはあって、僕は彼らが今出している光を受け取っているのだということがどうしても信じられなかったし、今でも信じられていない。光が何億年かかってたどり着くような距離が、このわずか50m程度の距離に、凝縮されて、横たわっている。その距離の、気が遠くなるほどの遠さばかりが、ただずっと、僕の全身を支配したまま、過ぎ去っていった2時間だった。

 だからこそ、トムが、ジョニーが、こちらの方にむけて一瞥をくれただけで、彼らの存在が激烈に感じられて、それだけで僕は泣きそうになった。僕が彼らに近づくことは出来ないけれど、彼らは僕に向かって近づくことが出来るらしいということ、それがわかっただけで僕は、言葉を失ってしまう。この凝縮された果てしない距離を、ほんの刹那の一瞥で跳躍して、その生々しい息遣いを僕に届けてくれる。なんで、あんだけ生々しい歌詞をうたう彼らの曲が、これほどまでに現実味を喪失してしまうのだろう。なんで、歌じゃなくて、そんな一瞥が、彼らの存在を何よりも強烈に主張しているのだろう。恋焦がれる思いは、知らぬ間に僕から彼らへと続く距離を随分と伸ばしてしまっていたらしい。今まで最も近くで観たRadioheadが、今まで最も遠く感じた。苗場のしんと冷えた空気が、ライブハウスの冷房のように時折涼しい風を、酸素の薄くなったモッシュピットにむかって吹き込まれる空気の薄い夜には、やはり無数の星が輝いていた。そんな星たちだって、僕とRadioheadよりはずいぶんと近くて、手を伸ばせば掴めそうだった。