僕として僕は行く。

旧・躁転航路

金原ひとみさんについて

アッシュベイビー (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

 

 私は金原ひとみさんの小説がとても好きです。中でも、Amazonでミソッカスに叩かれているアッシュベイビーが一番好きです。蛇とピアスがデビュー作で、その次が上にあげたアッシュベイビー。セカンド・アルバムが名盤なミュージシャンは絶対に大成するという僕の経験則は、どうやら小説家にも応用できるらしい。

 小説、そんなに一生懸命1人の作者を追って読んだりとかあんまり出来なくて、無論そんなだから網羅している小説家なんてないし、だいたい全作品のうち半分ぐらい読むとその作者の特徴みたいなのがわかっちゃって、次の作品を読んでもあ~やっぱり~みたいな、展開が読めちゃうというか、そういうのが出てくるのだけれど、金原ひとみさんに関しては五冊読んだ今でも未だになんでこんなに惹かれるのかわからないな、という感じがある。

 彼女の作品は、どれをとってもかなりグロテスクでバイオレンスなんだけど、それでもそういった表現が(僕にとっては)不快感なくスッと入ってくるという不思議がある。飲みやすいテキーラみたいな、という形容が可能ならばそれが近いかも。文中にはマンコだとかチンコだとか死ねだとか死ぬだとか殺すとかいう表現が普通に出てくるので、「そんな汚い言葉を使っちゃいけません!」とかいう教育ママに育てられた人とかはまずそこで篩(ふるい)にかけられちゃうみたい。その点僕は、あんまり言葉遣いで怒られたりとかされたことないし、好きなこと言って来たし、現に使う言葉だって結構汚いという自負みたいなのだってある。まあ自負すべきことではないのかもしれんけど。

 表現が汚かろうがなんだろうが、そこにリアリティがあるのだから、良いものは良いし、それを楽しめないようにするのが子育てや教育だとすれば、はて教育とは?美しい言葉遣いとは?とか思うし、言葉遣いが美しければ谷崎潤一郎みたいに淫らな内容でもOK~みたいな考え方のほうがよっぽど欺瞞じみてるんじゃないの、と思う。で、そういった欺瞞が一切無く、何の装飾もない、剥き出しの現実をなぜか常に手繰り寄せてしまうタイプの人間というのは、ニッチでありながら一定数いて、そういう風な人間は彼女の小説がスッと入ってくるんだと思う。

 

『キクがダチュラでコインロッカーを破壊できると思ったように、私も必ず何かしらの方法でコインロッカーを、世界を破壊する事が出来るはずだ。自爆してもいい。とにかくこの世界を破壊したい。コインロッカーを破壊したいという気持ちを捨てたら全てが終わりだ。必ず、外に私の見たことがない世界があると信じ続け、そこに希望を抱き続けている。』

村上龍著:新装版コインロッカー・ベイビーズに付された金原ひとみの解説より)

 

 村上龍も不快なことを不快じゃないように伝えられるのですごいと思う。村上龍にしても、金原ひとみにしても、そういう所があって、別にこの解説を読んだから金原ひとみを読もうと思ったわけじゃないんだけど、でもなんかそういう温度感が一番僕にとって気持ちいいんだろうな。あと、山田詠美も割と良く読むんだけど、金原ひとみの「オートフィクション」の解説は山田詠美でした。むむぅ。なんか手繰り寄せられている。僕は小説家のうち誰と誰が仲良しだとかそういうのあんまり知らないんですけど、どうもこの人達仲良しらしい、そしてそのグループの温度感が一番気持ちいいと思っている。謎だ。なんか、2ちゃんねるとかじゃまとめた形容とかされてそうですね。