僕として僕は行く。

旧・躁転航路

僕と哲学

 もしかしたら気づいている人もいるかもしれないが、僕は哲学や思想が好きだ。大学でやってるのは、政治思想っていうのを一応の専門だということにはしていて、法学部にいながら哲学っぽいことできるので、何かとお得な気がする、まあ就活やんなくなった今では、ほとんど何にも関係ないことなんだけれど。

 で、僕の視点とか、そういうのが思想に絡め取られているという風に形容されたことがあって、まあ確かにそうだな、とその時は思ったけど、今は別にそれ自体僕が進んでやってるしいいんじゃないかなと思っている。確かに、僕は哲学に全てがあると思っている節があって、でも哲学で語れないことなんて沢山あるというか、哲学の外部、みたいなのを再認識できた点で有意義だったけど、無理して別の世界に対する味方が出来るようになるかっつうとそれは急には無理で(無論、色んな見方を使い分けられるのが一番よい)、そもそも一つのフレームワークとして哲学(といっても十把一絡げに出来るもんじゃないんだけれど、まあそういう傾向性というものがあるとして)を用い、それに当てはめて世界をひたすら解釈しなおすという営み自体は、そもそもそれが僕にとって楽しいことなんだな、という再発見へとつながった。そして、僕の思考の傾向みたいなのがそっちに引きずられているのだとすれば、別にそれは何も恥ずべきことじゃないし、不自由なことでもない。仮に僕が哲学の束縛に絡め取られた、消極的自由の文脈での不自由のもとに今いるのであれば、しかし同時に僕は哲学を用いることでしか見れないであろう積極的自由も享受できているので、だからこそ楽しいと形容できるんだと思う。そもそも、全てになんで?と思うような、哲学でいうところの方法的懐疑ってやつを、なぜか僕は小さなころから家庭教育として叩きこまれてきたのだから、馴染んでいて、楽しくて当然だし、そこに消極的不自由のようなものは感じない。また、感じないからこそ、指摘されるまで気付けない。

 で、話を一歩すすめるならば、哲学と科学以外にこの世に何かあるのだろうか、と考えたら、あとは情のようなものぐらいしか無いと僕は本気で思っているんだな、とも思う。思考するところには常に広義の哲学がある。広義、といったのは、哲学の名の元に、全く別の議論が大海原のように広がっているからであって、理論化されていない分野はいずれ理論化されて、哲学になったり科学になったり、はたまた芸術になったりするだろう。ちょうど、カントが語った大きな三つの枠組みが、道具的理性(科学)と実践理性(倫理哲学)、そして判断力(美学)だったのと同じように。

 と、ここまで書いて、ふと、僕が日頃嫌悪している、全てを精神分析で語ることと、全てを哲学で語ることの違いとは何だろう、と思った。精神分析も、哲学の一分野であるといえばまあそうなんだけど。この辺は宿題だとして、今日は一旦筆を置きます。