僕として僕は行く。

旧・躁転航路

読書と人生

いま授業の合間にiPhoneBluetoothキーボードを使ってこれを更新している。文明の利器って感じでかっこよい。我ながらクールだ。とかいうけれど、事実としては5年生には休憩時間を共に過ごす友人など存在しないというのが真実なのだ。しかも今は1、2年の多いキャンパスになぜかいるので、エネルギー量が多くてすごいと思うし、自分の心身ともの衰弱ぶりが目立って辛い。

さて、今回は読書がいまの自分にとってどんな意味があるか考えてみたい。と言っても、もうある程度結論は出ていて、自分自身の種々の問題から目を逸らすために書物の世界に耽溺することもあれば、そういった問題群の解釈や何らかの解決の緒(いとぐち)を見つけるために読書することもある。だから、必然的に読書はどちらにせよ自分の人生に関わることになるし、そういう響き方が一切してこない本については読み通せないことが多い。

なぜ自分自身の問題を、読書という迂回路を経由しなければならないのかというと、それはおそらく、あまりに自分自身の問題が僕にとって手に余るものと気付けばなっていたからだろう。そういう迂回路・緩衝材抜きで自分自身というものを見た時に、それはすでにもはや劇薬の域となっているように思う。ラカンの言うところの現実界というのがすぐそこに現前していて、それと向き合った時には、たとえ向精神薬の力を借りたとしても大敗北を喫することになるのが近年の風習だ。

最終的には、そんな迂回路も緩衝材もなく、直接的に、この自分自身という問題に向き合える日が訪れるのが理想的だ。それがいつなのかはわからないけれど、僕はこれ以上僕に負け続けるわけにはいかない。ただ、勝つために、まずは負けを受け入れた、それだけの話だ。