僕として僕は行く。

旧・躁転航路

道徳と倫理について

 
この研究の過程でフーコーは、道徳と倫理とを切り離そうとする。道徳はつねに外から課せられ、抑圧的なものである。この道徳という形式には、倫理、すなわち自己自身を生産し、問題化するものとしての主体の美学を対置すべきなのだ。」 
(『フランス現代哲学の最前線』/クリスチャン・デカン 第四章 ”権力と欲望”より)



道徳と倫理について、僕が語るのって結構滑稽なところがあると思う(特に実際の僕を知っている人間にとっては)。だって僕はむしろどちらかと言うとアナーキーな人間だと理解されていることが多いから。でもそれは、僕が誰かの作った道徳を信頼してないからで、信頼できるのは自分の作った倫理だと信じているからこそであって、僕には僕の倫理があって、常にそれが試されていると感じているし、日々作り替えることを迫られている。「汝の意思の格率が常に同時に普遍の立法の原則として妥当しうるように行為せよ」と言ったのはカントだけれど、と説明をする前にこの文言をよりわかりやすく口語に戻すならば、「自分自身の意思決定基準というのが、常に社会集団の意思決定基準の基準として当てはまるような、正しいものであれ」ということで、さすがに「常に」とまでは言わないけれど、まあ僕はこれを諳(そら)んじることが出来るぐらいにはカントに信頼を寄せて、はあマジでほんとそのとおりだと思って、必要のない道徳は信じず、ただ社会の道徳としてあるべきものを僕の倫理として体現しているに過ぎない。

このカントの道徳律って、多少厳格すぎるきらいはあるものの、それでも万人にとって否定しえないものがあるように思う。普遍の立法の原則とは程遠い地平のものとしてコンセンサスがとれたものが犯罪なのだし、犯罪として明文化されていなくても不文律として、暗黙の理解としてやっちゃいけないこととやっていいことというのは実はくっきり分かれている。僕がアナーキーに映るのは、そのやっていいこといけないことの境目に敢えて挑戦することで、どんな帰結がうまれるか、そしてその帰結からやっていいことだったのかだめだったのか判断するためだ。

だから、僕が言いたいのは、みんながもうちょっとカントの言っていたことを実践して、自分のなかの倫理というものを作っていく、それはある種実存主義的な、フィクショナルな試みでしかないのかもしれないけれど、それでもそれを信じてやってみるということに意味があるはずだし、そうなっていけば、もっと傷つく人も減っていくはずなんだと思う。それは上に引用した通り、美学なんだ。美意識なんだ。人が生きるということに関する、美しさについて、どう定義して行為していくか、体現することが倫理なんだよ。僕はそう信じている。

ということを、あるアイドルがステージに降りたら客席のファンに胸を触られたという記事を読んで強く思いました。