僕として僕は行く。

旧・躁転航路

ここは自己開示する場なので全て書かないといけない

 近代人の、近代人たる所以の一つに、秘密というものがあるように思う。マニュファクチュアの進展と人間の機械化、社会の部分化、代替可能性というものが明らかになっていく近代において、ただ他人との峻別を図るためのアイデンティティの一つとして、秘密というものがあるように思う。もちろん、近代以前にだって秘密はあった。でもそれは家族や親しい友人に対する秘密で、そういうものとして文学においても表現されていた。近代人の秘密とは、社会に対する秘密だ。パブリックな領域において開示しないプライベートな自分こそがアイデンティフィケーションの一種となる。誰だったかは忘れたけど、秘密の無い人間は狂人だ、みたいなことを言っている人がいて、そのとおりだと思った。だから、僕は狂人なのだ。なぜだか知らないけれど、狂人にならなければいけないと思っている。ある部分を見せたり隠したり、という行為に疲れてしまったのだ、それが普通に出来る状態ではもはや無くなってしまっているのだ。

 だからこそ告白したいのだけれど、僕は6月の末からメンタルクリニックに通っていて実際に処方を受けている。与えられた薬から察するに、症状の軽重こそあれど、おそらくはうつ病だ。しかし、僕はうつ病のパブリック・イメージとしてあるようなネガティブなマインドをここで披瀝することはしていない。それは僕が卑怯だからだとも言えるし、でもそれ以上に、ここに向かうことができるとき、それは非常に前向きな気持ちになれているからだ。

 そう、僕は基本的に前向きなのだ。何かを生産していたいし、また創造していたいと願っている。常に新しい何かが生起するその瞬間に立ち会っていたい、そう考えている。その時の僕は至って健やかだ。にも関わらず処方を受け、定期的に薬を飲んでいるのは何故かというと、それらが無いとそんなクリエイティビティの一切が陰鬱な破壊衝動へと転化されてしまうのだ。

 それはきっと、覚醒時には何もネガティブなことなど考えもしないのに、夢を見ると悪夢ばかり見ることにも象徴的なんだと言えるだろうし、もっと言えば、一度薬を飲み忘れてわずか半日の間行動したら、徒歩10分の駅から家に帰るまでの気力すら削がれて、帰路の途中で何十回も座りこみそうになったことからも明らかなのだ。僕の想像を越えて僕の根本的な脳の働きというのはネガティブな方向に働こうとしているのだし、僕の脳は積極的にセロトニンを再取り込みしたがっている。

 ただ確実に言えることは、これはもうある種の病なのであって、気の持ちようだけでコントロール出来ないと僕自身が判断したこと、それは諦めなのではなくて一つ前向きな選択だったと捉えていただきたいということだ。誰に対する弁明なのか、それはわからないけれど、僕はそれを隠したまま生きていくのは卑怯だと思った。だから、親にも言えていないこの事実を、まずはここで披露することにした。僕は露出狂なのだろうか―残念ながら、今回の露出行為には何ら快感などは伴わなかったのだけれど。それでも、僕は生きていくために、この告白を書いた。今度は、この告白を、身近な人間に行なっていく番だ。これはその前哨戦だ。勝ったのか、負けたのか、それは誰が判断するのだろうか。そしてそんな勝敗に、何か意味などあるのだろうか。これから考え続けていきたい。