僕として僕は行く。

旧・躁転航路

昨今のマスコミに対するある種の義憤のような物に関して。

 大飯原発再稼働反対デモの類が大手マスコミに報道されない!という怒りがちらほら聞こえるし、そう言いたくなる気持ちは十分にわかる。絶対中立であり、権力の監視者である筈のマスコミが、むしろ権力の庇護者となっている、都合の悪いものは報道しない、腐敗したものになっている!という意見。それ自体は、いたって論理的で理解できる。

 しかしながら、僕がそういった意見に対して言いたいのは次のようなことだ。もうマスコミは中立性なんてものを放棄しているのだから、彼らに期待するのは無駄なのだということだ。もし中立なマスコミというものがあるとすれば、それは新たなに作られたものには可能性があるのだろうけど、既存の大手のマスコミが行政のコントロール下にあるという事実は、もう至るところで指摘されてきていることであって、それを考慮にいれず上記のような怒りの声を上げるだけならば、いささかナイーブすぎるのではないかと思う。だって、飼いならされた犬にむかって、その飼い主の手を噛まないなんておかしい!と言ったって仕方がないじゃない。なぜなら、飼いならされた犬に餌を与えるのはその飼い主なんだから。そのロジック自体はいたってシンプルだけど、しかし現にそうなんだから仕方がない。

 だから、この状況を打破するならば、さっきも言ったように、オルタナティブなマスコミを作ることが一つの選択肢として挙げられる。しかし、少し考えていただければお分かりだとは思いますが、”飼い主”に制限されない形で、かつ広域に迅速に情報を伝播する能力をもち、それでいてクリティカルに精確で、その上継続的に提供してもらえる情報リソースを持ったマスコミを作るというのは途方もなく困難であり、そしてそれは事実上不可能に近い。そういう事情があるからこそ、継続的に、かつ精確で、現場に近いリソースを確保するためにマスコミは権力と癒着する。

 だからこそ、マスコミと政府というアクターのそれぞれを個別に批判しても仕方がなくて、むしろ今批判されている状況が自然発生してしまうこういった構造自体を把握した上で、その作り替えを行う、もしくはその構造自体を無力化していくには一体どのようなことが可能か、という議論に進んでいくことこそ建設的だと思う。そして、残念ながら、というか幸運ながら、というべきかは難しいところだけれど、公共性を失ったマスコミはただのエンターテインメントに堕落して次第に報道機関としてのプレゼンスを失っていくし、それこそが今起こっていることの全容なんじゃないかと思う。

 この話をあえて極端にシンプルにするならば、文句を言うだけでは何の意味もなくて、じゃあ何が出来るか考えよう、というところに向かっていくべきなんじゃないか、ということであって。今のマスコミはクソだ、ゴミだ。それはわかったし、仕方の無いことなんだから、じゃあどんなマスコミの形が可能かな、ありうるかなっていう構想、たとえばどうやって精確でかつ現場に近いリソースを確保するか?それを広域に伝播するための手段は?どうやって継続発展のための収益を確保するか?というところからはじめて、そして実行に移して、適宜修正していくっていうプロセスこそ、本当に必要なものなんだと僕は思う。