僕として僕は行く。

旧・躁転航路

電撃

最近読書が楽しくなってきたという話を以前ここでもしたことがある。その時は誰にも強いられることなく、自由な発想で読みたいものを読めるようになったからという説明をしたように思う。

いま、それに付け加えるならば、意図的に線を引こうとしてないことがあると思う。どういうことかというと、目的を持って、こういうことに詳しくなろうと思って本を読む、ということをやめたということだ。何となくいろんなところに点を集めて、それがなんとなく少し繋がって図になって、ということを楽しみにしているところがある。いわば、具体的な動線を引くことをやめ、ランダムに点を打ってそれで出来上がる動線を楽しもうというわけだ。適当に打った点が意外な点と繋がって新しい線になる。この計算不可能性、予測不可能性、ある種のギャンブルが、今は何よりもとても楽しい。試行錯誤することが楽しいという時はだいたいこういう姿勢が保たれている時のことのように思う。

こういう楽しい試行錯誤の感覚の原初体験っておそらくは幼児期なんだと思う。物をぶん投げてみると音が出て楽しい。ティッシュケースからティッシュを引っ張ると音と一緒に出てくる。サッカーでも似たような構図はあった。閃きでやってみたことが何よりも効率的でかつ自分以外誰も予測しえないプレーとなる。今はともかく、トゥーロン国際大会でベストエレガンス賞を受賞した頃や、その後「ル・マンの太陽」と呼ばれたころの松井大輔にはそんな「遊び」がたくさんあった。過去の何の関係もなかったような身体的記憶が突如全く別の色を持って蘇る爽快さがあった。

何も考えずに点を打ち続けていると、たまにそういった身体中に電撃が走るような線の繋がりができる。子どもの遊びはそんな電撃を得るための点を打ちまくる作業だ。思いつきで打ちたいところに点をうち続ける。こんな風に、どんなことであれ子どもの遊び化すれば大抵はプロフェッショナリティを帯びてくるように思う。だからこそ、音楽でもどんどんそういう体験をしていきたいと思っている。