僕として僕は行く。

旧・躁転航路

飽きの世界大会

 とうとう残弾が尽きた。何の残弾かというと、このブログの書き溜めである。実はこの一週間の間公開していたのは全て過去に書き溜めしていたものであって、新しく書いたものは一切ない。そんなの日記じゃねーだろ、と思うかもしれないけれど、これを日記だと思っているのはあなた方だけであって、僕は別にこれを日記だとは思っていないばかりか、落書き帳みたいなもんだとしか思っていないので、悪しからず。

 だいたいが、二ヶ月ぐらいだ。このブログを始めてからの日数もそうなんだけれど、それ以外にも、だいたいのことは二ヶ月ぐらいあると飽きることが出来る。自分で言うのも何だけれど、僕は飽きるプロフェッショナルだと思う。飽きでメシが食える数少ない人間だと自認している。俺の飽きは金が取れる。飽きの世界大会とかあれば僕はおそらくは日本代表の最終候補ぐらいには選出されると思う。

 日本全国、南は沖縄、北は北方領土まで、飽きの強者たちがここ両国国技館に介す。計測方法は、小説でも映画でも何でもいいんだけど、何かしらの題材について触れていて、短時間でどれだけ脳の活性に落差をつけることができるかという風に測定される。この「落差」というのがポイントで、ただ単に周囲に興味を持たない、無関心なだけの人間では落差を演出することは出来ないから、必然、水素のように燃えやすく冬の缶コーヒーよりも冷めやすい人間だけが集まってくる。ちなみに、脳のサーモグラフィーみたいなのを見るから、自分に嘘はつけない。脳は正直なのだ。

 とはいってもだ。純粋な反応だけではおそらく世界を舞台にして戦えるようにはならないだろう。一流と呼ばれる人びとは、おおむね自らを律し、意図的に飽きる術を持っているし、そうでなければ、世界のなみいる強豪たちの相手にすらならないだろう。確かに楽しいけど、あーこれでもだりいな、そう思える心をいつでも持って置かなければならない。

 けれど同時に忘れてはならないのは、「熱しやすさ」の部分だ。これは、さっき述べた「冷めやすさ」とはちょうど対概念となる。プロとしては、何にでも興奮しなければならないというのも、実は敷居が高いように思う。素人に出来ない芸当だ。例えば題材が「恋空」だった場合にも、そこで反射的にゲンナリしてはならない。「おお!恋空!!!あの恋空でござるかっっ!?」みたい反応を素でとれなければいけないのだ。これはなかなか容易なことではない。まさしく水素のように、恋空という、本当に僅かなこの火種だけで爆発しなければならない。

 これらの相反する二つの指向性――「熱しやすさ」と「冷めやすさ」は同時には絶対に起こり得ないものであるばかりか、往々にして相反するものである。それでも、プロとしては完全なるコントロールを手に入れなければならない。モチベーションの調整だって容易ではないことだ。しかし、だ。それでも、日本の競技飽きの未来を担う新世代として、一番輝くメダルをこの両国の地に持ち帰るという悲願の達成、ただそれだけのために、僕らは毎日、かじっては捨て、かじっては捨てを繰り返し、大体のことは長くても二ヶ月もあれば飽きられるという所まで至れた。今後は、火がついた瞬間に冷めてるというような、前人未踏の地、明鏡止水の心と呼ばれるその境地に達し、まずは正月の全日本選手権で良い成績を収めることを目標にしている(していない)。