僕として僕は行く。

旧・躁転航路

文体と呼ばれるものに関して

 文体、文のリズム、悪文、とかそういった類の観点があんま僕の中になくて、だから世に言う悪文とされるものとかあんまり僕には理解できなかったりするという話をかつてここでもしたことがあるんだけど、もしかすると、これが文体的に合わないということなのかな、という経験は思い起こしてみれば2、3ある気がする。

 たとえば、つい最近まで村上春樹の文章というのが絶望的なまでに気持ち悪くて読めなかった。でも、まああの人はわざとああいう喋り方になってしまう人なんだろうししゃーないわなと思えるようになってからは、内容の好き嫌いはさておき、多少は読めるようになった。あと、直近の例でいうと、どうしても内田樹のブログの記事を読み通せない。なにかこう、読んでもらうための配慮みたいなのが特に無くて、事実と主張が剥き出しで来ているのが嫌なのかなと思ったけど、でも性向としてはむしろレトリック過剰な文章のほうが元々苦手なはずだし、根本的にマッチョな所があるので男は黙って論理のみみたいな文章のほうが僕は好きだったりする(各方面から怒られうる発言)ので、なんで読めないのかかなり謎な気がする。テーマ設定とかは面白そうと思って惹かれることはあるんだけど、読み始めると、読み通すインセンティブみたいなのが急激に要求されるというか。彼という人物を個人的にあんまり好きじゃないとかそういうのがあるのかな~とか思ったけどそこまで思い入れのある人物でもないし、本当によくわからない。その点、村上春樹の文章はどこがウザいのか明確だったのでそこを黙殺したりだとか、もしくはその文体チョイスの狙いとかを考えればなんとか許容できるようにはなるのだけれど、原因がわからないとこっちとしても困る。まあそんなこと言われても、内田樹さんもかなり困るのだろうけど。そう考えると、お互いが不幸だし、このままではいけないので、僕と内田樹さんはなんかいっぺん会談とかすべきだと思う。ということで、テーマとか募集しています(していない)。