僕として僕は行く。

旧・躁転航路

「ヘブン」(川上未映子)について (2)

 

ヘヴン

ヘヴン

 
※すみません、(1)では言い忘れましたが、ネタバレを多分に含みます。
 

(2) 倫理と同情の物語として

 

 功利主義と直観主義。これらは、倫理にまつわる態度として、長らく哲学史において係争中である2つの潮流だ。功利主義とは、全ての価値は"功利=心的満足”に基づいて序列化が可能であるとする立場で、全ての人間は自身・もしくは自身の属する共同体の心的満足の最大化を常に図ろうとするというものである。学問的には経験主義の系譜にある。一方の直観主義とは、功利主義のように全ての価値は心的満足の充足のためのものだとは考えておらず、”直観的に”必要不可欠とされるいくつかの善の存在を主張している。つまり、いついかなる状況においてもある特定の価値は守られなければならないといった考えで、その価値とはたとえば神であったり、基本的人権であったりする。

 冒頭、これらは今なお係争中であると述べたけれど、実際にはこれらのうちどちらかが覇権を握り、他方を叩き潰すということは今後もおそらくは無い。実際の法制度等を見てもこれらが両輪となりつつ、僕らのルールを構築しているのは明らかだ。僕の感覚としては、ホロコースト以前は、割りと功利主義的な発想―価値効用の最大化というものが政治的意思決定の過程においても重視されていた感があるが、ホロコーストの衝撃によって、やっぱり守らなければいけない価値とかはあるよね、という風な”反省と自省”の意味合いが大きく増したという感じで理解している。ユダヤ人だって人間だし、生きていくための権利があって、それは誰にも干渉できないものでしょう、ということが普遍化して、あらゆる人間(それは以前のように西欧の人間だけではなく、第三世界やアフリカも含む、全世界の人類)には基本的人権があるというのが、ようやく、血なまぐさい”実感”をもって理解された、ということだろう。

 話が少しかわって。ジョン・ロールズという道徳哲学家がいる。彼の思想内容について簡潔に説明するほどの紙幅もないしまた能力も無いので割愛するが、僕個人としては、彼は「自分が自分ではない(orなかった)可能性を常に考慮せよ」という所を最大原理として思想を組み上げた人だと思っている。言い換えるならば、「自分がやられて嫌なことは人にはするなよ!」を本気で考えた人で、またそれがなぜ必要なのかを本気で説きつづけた哲学者だ。たとえば、自分自身が加齢か事故かで足を悪くして車椅子生活を余儀なくされる可能性を考慮する。となると、自分自身がそうなりうること、そして現にそのような生活を送らざるを得なくなった人びとの心情が一気にリアリティを増してくる。社会には、ただそんな風に生まれついた、もしくはただそんな風になってしまったというだけで、”健常者”が体験し得ない苦しみを受けている人間が沢山いる。ひょんなさじ加減で、運命次第で、自分がそんな苦しみを受けていたのかもしれない。そうなるともはや他人ごとではない気がしてくるし、当事者のような気すら湧いてくる。だから、全ての人に優しい社会を作らないといけない。という風なのが、僕のざっくりしたロールズ理解。

 ただ、全ての人間が、そんな風に、ロールズのように考えているわけではない。その象徴的な人物が、「ヘブン」に登場する百瀬だ。

 

『・・・僕は自分で選んでこの目を持って生まれてきたわけじゃないんだ。君がふつうの目をもって生まれてきたのは君が選んだわけじゃないだろう?』 (p.165)

 

『まず』と百瀬は言った。『さっきの話のなかで、それを選べなかったからという点において、僕と君はおなじだって言ったけれど、これは全然違うよね。ごらんのとおり僕は斜視じゃないし、君じゃないし、君は斜視じゃなくないし、僕でもない』と百瀬は笑った。(p.166)

 

 厳然たる事実、変えようのない事実として、僕は斜視であり、百瀬は斜視ではない。僕の言っていることは確かに正しいが、だからといって百瀬に斜視の気持ちを考えろといっても、事実上違うために、それは不可能である。属性の違う他者は、どこまでいっても他者でしかない。どう転んでも、斜視の当事者としては百瀬は世界をみることが出来ない。

 また話が少しずれるが、僕はなぜ「斜視」なのだろうか。他にもスティグマとなるものは沢山あったはずだ。それこそ、足が悪いとかでもよい。先天的なもの、後天的なもの。その中で斜視を選んだ理由を邪推するならば、彼が「見ている」世界が「歪んでいる」ということの象徴性なのだと思う。もちろん、本来的には、たとえ目に障害の何ら無い人間の全員が、同じ風に世界を見ているとは限らない。しかし、斜視(斜めを見る、squint-eyed:目を細める)は、健常者の「真っ直ぐを見る、目を細めずに見る」世界とは対比しやすい特徴がある。「見る」という行為の象徴性―真っ直ぐ/斜め。見ることは世界と触れる第一の方法である。その、見るということが健常ではないこと、そしてそれを強いられていることは、世界が文字通り「別に見えている」ということであって、健常者には計り知れない断絶が存在している。そのことを端的に表す障害が「斜視」だったのだろうと思う。

 

 どう転んでも、斜視を通して写る世界を、僕らは想像し尽くすことが出来ない。その断絶を無理に跳躍しようとすれば、それは―ある意味百瀬よりもずっと残酷な―同情という形を取ることになる。

 

 コジマは、いつも不潔であるという理由(敢えて理由というものがあるならば)で、”僕”同様いじめられている。しかしそのコジマは、離婚して別々に暮らす父親がいて、彼は劣悪な生活状況を送っており、やはり不潔である。コジマは、そんな父のことを忘れないために、常に不潔にしているという。コジマは母方にいて、今は新しいお父さんがいるが、コジマは馴染めないでいる。ある時、コジマはなぜ前夫と結婚したのか母に尋ねた時に、「かわいそうだったから」と答えたという。そんな母をコジマは許せない。ではなぜ許せないか、その理由を述べたのが、”僕”が斜視の手術を受けようか悩んでいるということをコジマに相談したシーン。少し長くなるが、象徴的なシーンをいくつか引用したいと思う。

 

「その目は、君のいちばん大事な部分なんだよ。ほかの誰でも無い君の、本当に君をかたちづくっている大事な大事なことじゃない。わたしには、なんにもないから、わたしはこうやってしるしをつくるしかなかったけれど、君には生まれもったしるしがあって、だからわたしたちが出会えたことは大事なことじゃなかったの?」

「そんなことない。大事だったし、いまでもとても大事に思っている」と僕は言った。

「手術をするのを決めたとか、そんな話じゃないんだよ。ただ、さっきも言ったけど、ただ治るかもしれないってことを知ったから、それを君に言いたかっただけなんだよ」

「そんなの嘘よ」とコジマは言った。

「君はうれしかったんでしょう?それを知ってうれしかったんじゃないの。本当は、その目を治して逃げたいと思ってるんじゃないの

「逃げる?」と僕は聞いた。 「なにから?」

「全部からよ」とコジマは言った。 「学校で起きてること、いまのこと、君自身。なにもかもからよ」 (p.197-198) 傍線:引用者

 
この後、コジマは失望したと言って泣き続け、それをなだめようとするのだけど上手くいかないという状況が描写されたのち、話は急にコジマの母親の話になる。

 

「夏に」

「夏に?」 僕はその声を逃さないように、ききかえした。

「夏に、お母さんの話を、したよね、わたし」

「した」僕は肯いた。

「お父さんと ・・・・・・なんで結婚したのかってきいた話」

「うん」

「なにもかもが、可哀想だったって」

「うん」

「お母さんはお父さんのなにからなにまで、可哀想だったんだって」

「うん」 僕は何度も肯いた。

「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは」

コジマのうす汚れた顔の表面で涙がかわき、白目は真っ赤に充血していた。下まぶたが大きく腫れ、そこだけ色が白っぽく見えた。コジマは僕をじっと見た。髪が細いたばになってほおにはりついていたけれど払おうともしなかった。

「お父さんを捨てたことでも、新しい人のところへ行ってなにもかもをなかったことにしたことでもなくて」

僕は黙って肯いた。

「最後まで」

僕はまた肯いた。

最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ

そう言い残すとコジマは階段を降りていった。 (p.201-203) 傍線:引用者

 

 コジマにとって、僕は「可哀想」であり続けなければならなかった。それがスティグマを背負う「可哀想」な人間に課せられた運命だった。中途半端な同情は許されない。徹頭徹尾、同情する人間と、同情される人間が、そのパワーバランスを維持し続けなければならない・・・たとえ、そこから容易に抜け出せる方策があったとしても。コジマにとって、両親の離婚は、母親が一方的に悪いということになっている。確かに、単なる同情からスタートした関係などは破綻してしまうし、同情した人間が悪いのかもしれず、運命を共にすると決めたのなら最後まで同情すべきだったとも言える。しかし、コジマにはどうしてもわからない。同情される側の心理が。どれほど惨めな思いをするのか、そしてそれを一生背負い続け無ければならないという業の重さが、彼女にはまるで理解できない。父親が同情されることに耐えかねて離婚したという風には考えることが全くできない。彼女にとって、同情されるべきスティグマは聖痕である。その”しるし”は確かに普通の人には理解できないかもしれないが、コジマには燦然と輝く聖痕なのだ。確かにスティグマはある者にとっては烙印ともなりうる。スティグマを烙印として同定してしまうこと、それはいじめる側の論理に同調することを意味する。しかし、だ。それは同時に、いつでも捨てられるスティグマを身に着けている者の論理で、同情するための道具でしかない。固定的で、運命のように自分に重くのしかかる、避けようのない烙印では決して無い。だからこそ、僕とコジマは「仲間ではなかった」のだ。彼女が見せた涙は、決して僕に対する怒りだけではなく、コジマ自身の、そのような横暴さを自分の中に見つけたことに対する悲哀も意味しているのだろう。

 百瀬のいうように、所詮、事実として違う以上、そうでありうるという可能性だけでは、人は誰かの気持ちに寄り添うことは出来ないのかもしれない。いや、そうであるばかりか、往々にして、持てる者は持たざる者を、自分の目的のための手段にすらしてしまうのかもしれない。コジマは、ある種、「烙印とされるスティグマの本当の価値は、反転した聖痕としてのスティグマに裏付けられる」という自身の考えを裏付けるために、わざとスティグマを身にまとい、そして僕に接近していたのかもしれない。そしてそんな風に、弱者に憑依することによって忘我状態に陥られるコジマは、僕が持つ、剥き出しの痛みは理解できない。

  

 真に寄り添うとはどういうことか。それは倫理の問題でもあると同時に、もっと生活に根ざした、生々しい問題である。川上未映子が投げかけたかった問題とは、一つそういったところにあるのかもしれない。