僕として僕は行く。

旧・躁転航路

「ヘブン」(川上未映子)について (1)

ヘヴン

ヘヴン

 
※追記:ネタバレいっぱいあります。 
 

(1) スティグマをめぐる物語として

 

『あの子たちは―クラスのみんなはね、なにもわかってないのよ。自分たちのしていることの意味がわかってないのよ。自分のしたことが人をどんな気持ちにさせるものなのか、人の痛みなんて考えたこともないの。ただまわりにあわせて騒いでいるだけなの。わたしだって最初はすごく悔しかったわよ。だってわたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。これはわたしにしかわからない大事なしるしなんだもの。お父さんがどこかではいてるどろどろの靴を、わたしもここではいてるっていうしるしなのよ。汚さにもちゃんとした、ちゃんとした意味があるのよ。あの子たちにはそんなこと言ってもぜったいにわからないのよ。そう思わない?』(p.94)

 

 コジマは盛んに、斜視の僕に対して自分たちは仲間であると説く。でも本当は、僕にとってコジマは仲間ではなかったのではないかと思う。コジマは、自分自身のために、後天的にスティグマ(=汚い身振り)を選びとっているのだけれど、僕の斜視は、そんな風に選びとったものではない。この斜視こそがすべての元凶であると思ってすらいる。本当の貧しさと清貧などは全く別物であるように、彼らは実際には真逆の人間なのである。いつでも放棄できるスティグマを信念をもって持ち続ける者と、信念もなくただなすが儘にスティグマを背負い続ける者。後者が前者を憎むような図式だって世の中には沢山ある。乱暴にいえば、「『当事者』の時代」で非難されていたのは、どちらかというと前者のような人間だった。

 

 ただそれでも、僕がコジマを愛しく思うのは、やはり思春期のなせる"業"なのだろう。川上未映子は、思春期の"性"のグロテスクな描写に関しては一貫している。無垢ゆえに無慈悲で、強引で、自己目的的なものだ。自分が接近できる同年代の女性というだけで、特別な象徴性を帯びてしまう若さ。せめて、僕は積極的に性消費しないがために、自慰の際にコジマについてイメージすることはやめておくことにしている。本当に瀬戸際の攻防だ。それを認めたら、最低な人間になるという自覚だけはしっかり持っている。自分の目を好きだと言ってくれたコジマ。この忌々しい斜視を。すぐにでも治したいと思っているこの斜視を、彼女は愛した。けれど、僕は本当にコジマを愛していたのだろうか?読み手によってどう捉えるか、すごくかわってきそうなところだ。

 

『・・・僕は自分で選んでこの目を持って生まれてきたわけじゃないんだ。君がふつうの目をもって生まれてきたのは君が選んだわけじゃないだろう?』 (p.165)

 

『まず』と百瀬は言った。『さっきの話のなかで、それを選べなかったからという点において、僕と君はおなじだって言ったけれど、これは全然違うよね。ごらんのとおり僕は斜視じゃないし、君じゃないし、君は斜視じゃなくないし、僕でもない』と百瀬は笑った。 (p.166)

 

『わたしが、お母さんを絶対に許せないのは』 コジマは顔を上げて僕を見た。(中略)『お父さんを捨てたことでも、新しい人のところへ行ってなにもかもをなかったことにしたことでもなくて』 僕は黙って肯いた。『最後まで』 僕はまた肯いた。『最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ』  (p.202-203)

 

 選んで身につけたもの、選ばずに身につけざるをえなかったもの。自分のもの、他人のもの。想像力が架橋できる断絶の限界。"しるし”が聖痕であるか、はたまた烙印であるか。それを決定するものは何か、そして果たして、それは真に決定可能なのか。殺される側の論理/同情する側の論理の間には、埋めがたい断絶と、分かちがたい共時性が同時に存在している。