僕として僕は行く。

旧・躁転航路

同情することの諸々

 根本的に同情(それがいかなる形であれ)とは、果たしてやっていいことなのかどうかというと微妙だということを考えるようになった。これはなかなか根深い問題だ。たとえば、恋愛というシステムから疎外されて、かつそのことに苦しんでいる、苦しませるような出来事に次々と苛まれるような人がいて、僕は彼女がどういう形であれそういう苦しみが減りそして願わくば彼女の理想的なところに落ち着けばよいと思うが、それは実は多かれ少なかれ、恋愛をするのが是だというテーゼというか、文化的コードというか、そういったものに拘束されていることも意味しているし、そもそも"苦しみ"を良くないもの・悪いものの象徴として捉えているといえば確かにそうだ。こういう風な考え方はあんまり僕にはなかったものなので、新鮮である。苦しみは否定されるべきものか?取り除かれるべきか?なぜ、苦しみは否定的なものの根源なのか?興味深い話である。