僕として僕は行く。

旧・躁転航路

『当事者』の時代 読んだ

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

 

"常に市民は、権力に蹂躙され、か弱い被害者。そういう型から逸脱した原稿は、新聞のコンテキストには適合できないということなのだ。"(p.187)

"抑圧された民族の立場に、理念的に同化して『自分は批判の視座をつかんだんだ』と思い込んでしまうと、その瞬間に全ての言葉はメロドラマ的な情緒主義に陥ってしまう。"(p.331)

"だから津村は、本多が著書のタイトルにも使った「殺される側の論理」といういいまわしを強く批判し、こう書いた。「このような観念的な同化を前提とした報道のこちら側に可能なのは、『同情する側の論理』であっても『殺される側の論理』ではない」と。”(p.333)

 

 僕の主観がまじりまくった要約。佐々木氏は「市民」と「庶民」を明確に区別して語る。この区別は、吉本隆明のような戦後知識人の議論を想起するとわかりやすい。すなわち、"政治的に目覚めた人間こそが市民の理想的なあり方である"という彼らのスタンスから、そういった人間こそを市民と呼び、そうではなく日常に"堕落"した人間を庶民と呼ぼう、というわけである。で、正直なところそういったうさんくさい、政治に目覚めた市民が真なる民主主義社会を確立するみたいな言説ってもはや現代においてはどこいっても相手にされてないんだけれども、それをガチで信じているのが新聞社とかマスコミであって、結果的に、本来的には周縁化された、相対的にはごく少数にすぎない市民(=活動家とかプロ市民とか揶揄されるような層)をあたかも大多数の一般庶民のように描いてしまう恣意性みたいなのにメディアは取り付かれている。しかも、メディアが扱いたいのは弾圧されて弱々しくそれでも健気に頑張っている市民であって、むしろ市民とはそういう風なもんでないといけないのだ、という多分に恣意性をもった報道がなされてしまう。マイノリティの気持ちを勝手に創りだし、それをアンプリファイして、俺たちは社会的意義のある仕事をしてるんだぜ~っていうことがしたいんだけど、結局は自己満足であるばかりか、むしろそうやって歪んだパブリックイメージが作られていくので迷惑ですらありうる。んで、こういう図式をマイノリティ憑依と佐々木氏は呼んでいる。この図式においては、当事者なき当事者の声がメディアを介して拡散されていくことになり、これがマスコミ不信の一助を担っているという。

 こういったマイノリティ憑依、圧倒的に被害者のほうに寄り添いたい気持ちというのは、往々にして贖罪意識のようなものからスタートする。しかし、どれだけ気持ちを寄り添ったとしても、被害者そのものにはなれるわけではない。そして、往々にして、自分自身が加害者の立場である場合は、むしろ自分たちの加害者としての当事者性を放棄していることにすら繋がりうる。ここで重要になるのは、自分自身が真に何の当事者であるか把握し、そしてその当事者として自分自身の問題にあたるということである。そして更に繊細なのは、被害者はただただ被害者なのではなく、また加害者もただただ加害者であるばかりではないということだ。むしろ、被害者であることが加害者であるということに繋がってすらいる場合も多い。たとえば、戦後を振り返る日本人のスタンス。彼らのスタンスの変遷としては、まず最初に「軍部に騙された被害者」だとして、軍を一方的な加害者、そして自分たちを一方的な被害者だと規定した。そして"1970年夏"にそのパラダイムは大きく変容する。自分たちもまた、東南アジアを中心とした人々に対する加害者であるのだという発見が戦後30年近くが経過してようやく発見される。つまり、軍部の前に被害者であり続けたがゆえに、加害者へと転じてしまったということになる。しかしながら、そういった軍の暴走の責任は、軍そのものだけではなく、間違いなくマスメディアや市民にもあるのだと。つまり、このように被害者と加害者の対立図式は実は無限にも見えるほどに入り組んでいる。だからこそ、それぞれのタイミングで、各々の当事者性をもって意見を表明せねばならなかったし、振り返る際にも当事者性を放棄してはならない。たとえば、軍に"騙された"市民であれば、市民として、最大限の知性と勇気をもって抵抗すべきだったのかもしれないし、もしくは戦後に、あの時はあれが正解なのだと自分たちも確信していた、と考えるべきで、どちらの経路を辿るにせよ、他責的に、当事者性を放棄していては何も前進しないのだということになる。

 こういった議論は、おそらく佐々木氏の頭のなかにも丸山真男の無責任の体系の議論が浮かんでいたであろうと思う。ただ、そこに「各位が自身の当事者性とは何かをじっくりと考えなければならない」というテーゼを掲げたことはすごく斬新で、僕自身もすごく同意できるとことがある。そして、このように自分自身の当事者性をしっかりと引き受けることというのは、逆説的なことではあるが、吉本隆明などが意識していたような"市民"のあるべき姿なのではないか、とすら思う。というのも、自分自身の当事者性を引き受けること、それは確実にアイデンティティの問いを惹起することでもあるのだ。そしてその結果として、いかなる属性やアイデンティティも、すべてが仮初の与えられた属性でしかないという結論に至ったとしても、全てはそこからようやく始まるのだと思う。虚構でしかないナショナルアイデンティティを盲信した僕らが生んだものは一体何だったのか?なぜ、そのようなアイデンティティが必要とされたのか?そして、仮初にすぎない属性の中から、今後何を選びとり、何を捨てていかなければならないのか?そこでようやく、僕らは当事者としての言葉を交わし始められるのだろう。