僕として僕は行く。

旧・躁転航路

僕が何言ってんのかそもそもわからないといういくつかの指摘について

 反省しています。特に、特定のタームを自分なりのコンテキストで使うきらいがあって、そういうのが余計に自分にしか理解できない文章を作り上げていきます。そもそも、そういったタームは、僕が学術的な定義をしっかりと勉強していないか、もしくは元々使い始められた文脈においてもモヤっとした感じで使われていて、何となくこういうことだよね~みたいな空気のなかに迎合して使っているというのが真相です。

 特に、僕の使う「象徴性」だとか「記号性」、および「消費」っていう語彙は今までにも何度かゆるい突っ込みを受けたことがあって、その度に一応説明することにしてはいるのですが。そもそも、そういったどうとでも取れる言葉の使用を排そう、もしくは毎回しっかりと定義を示そうとすれば、それはもはやブログというスペースで思いつきでババっとやってしまうという範疇は超えてしまうんですよね。そうじゃなければ、明晰哲学みたいな、味気のないものが出来上がってしまう。まあどちらにせよ、どっちかっつうとアカデミックな装いを帯び始めてしまう。で、これは初めて言うんですが、アカデミズムの中じゃなくても、またアカデミズムのスタイルにのっとらなくても、ある種学術的な発見に寄与できそうな言論が展開されうるような開かれた空間というのが必要だとも思っていて、そういった所に立脚すると、アカデミックなスタイルというのはなるべく忌避したいと思っているんです。

 ただ、一つ言っておかなければならないことがあるとすれば、僕はこれらのタームをあからさまに議論を/読み手を混乱させるために使用しているということは断じて無いということです。そういった事が起こるとすれば、私の語彙の貧弱さが意図せずして引き起こしていることなので、勘弁してつかあさいというのが本音です。

 あと、辛いのが、日常的な語彙ではなくて、少し学術的な語彙を(そもそもこの二項が対立する二分法というのがあるとすれば)使い始めた途端「うわー出たよ、インテリぶっちゃって、本当に賢い人間はそんなの使わなくても言えるはずだろ?」というタイプの言説を引っ掛けてくる人間がいますが、言われた側の心境としては、はっきりいってそれは無茶というか、無責任です。そもそも、元から同じ紙幅でシンプルに言えることならばそっちを使いますし。以前、同様のいちゃもんをTwitter上でつけられたことがありましたが、日常的な語彙に”翻訳”するだけで、元々が140文字に満たないツイートが280文字ほぼマックスに使うようなことになります。推定の見積もりで、だいたい毎回少なくとも1.5倍、多くて3倍近くの文字数を要すでしょう。これが果たして本当にシンプルな手続きと言えるのでしょうか?それならば、僕の投げかけた文章に対し、この一節はどういうことですか、とか聞いてくれるほうが話としては手っ取り早いですし、そもそもいくらなんでも僕が伝えるために一方的に努力し続けなければならないのか、という当たり前の考えもあります(まあ不遜っちゃ不遜ですが)。だいたい、語彙なんてググってみれば何かしら引っかかりますし。その努力までこっちに押し付けられちゃたまらん、というのがぶっちゃけた本音になります。