僕として僕は行く。

旧・躁転航路

このブログの説明のために、肩凝りの話をしなければならない。

 みなさんは肩凝りに苦しめられたりするのだろうか。巨乳だと肩が凝るとか凝らないとかいう話もあるが、巨乳とは言いがたい皆さんや男性の方であっても肩凝りに悩まされる人は少なくないようだ。

 しかしながら、僕は一切肩凝りをしない。いや、この伝え方では語弊があるか。肩凝りをしているらしいが、その事に対して辛いだとか苦しいだとか一切思ったこともない。というのも、鍼灸などに明るい人に言わせてみると、僕の肩は「ガッチガチ」らしい。で、その人に少しほぐしてもらうと確かに肩が軽くなった気がするが、だからといって死ぬほど快適、コレ無しじゃもう暮らせません!レベルには至らないし、現に彼から肩凝りとは何たるかを教えてもらった以降も、別に辛いとは思わない。白人なんかは全く肩凝りをしないとかいう話を聞いたことがあるが、これに近いのだろうか、等と考えてもみたが、そもそも私を知る人の多くがそう想定するように、私には白人の血など全く入ってはいない(祖母が四国の出なので、村上水軍の末裔だと刷り込まれて育ったが、特に裏付けがあるわけではないのであまり公言していない)。

 僕にとっては体感できない辛さをみんなが感じている。その事に対して特別に引け目を抱いているわけではないが、肩凝りが辛いという人に対してはせめて労りの気持ちを持てたらな、とは思うし、「肩凝りなんてそんな辛くねーだろ、深刻ぶってんじゃねえよ」等とは間違えても言わないし思いもしない。それぞれがそれぞれの感覚をもって痛みを授かり、苦しんでいるということを僕は知っているのだ。

 だからこそ言いたいのが、一般的に看過されがちな事象・状況に関して僕が憤り、その怒りを述べている時に「そんなに考えすぎるなよ」等とは間違っても言って欲しくはないということだ。これは僕にとっての肩凝りなのだ。体は痛まないにしろ、心がとても痛んでいるのだ。そしてそれは鍼や湿布では治らないし、無論久光製薬さんの貼る文化で癒される事柄でもない。みなさんが肩凝りの痛みに苦しむように、僕も僕の心に生まれたしこりに苦しんでしまうのだ。これは、もはやどうしようもないことで、いわば体質だとしか言いようがない。

 つまりだ。ここに綴られる言葉たちは、僕の「凝り」を伝えるための記録なのだ。生まれてきてしまった心の凝りをここで解放してやることで、心を少し軽くしなければならないのだ。そこで、出来れば、誰かの心に響いて欲しいし、そこから何か生まれたならば、この行為も少しは意義のあるものだったと感じられるのではないか。

 あなたと二人で、この凝りを何か別のものに変えられたなら、それはとても美しいことだと信じて、躁転したままこの路を行くことに、僕は決め込んでしまったのだ。