僕として僕は行く。

旧・躁転航路

改めて言うけど、「趣味は人間観察です」をやめろ

 随所で小馬鹿にされてきたせいか、はたまたネタとして消費され尽くしたからか、「趣味は人間観察です」などと宣う輩を見かけることは幸いにも激減したように思うが、では果たしてそれがなぜ僕にとって幸いなことなのか、いやこう言うべきか、つまりは趣味は人間観察ですという人間を僕はなぜ嫌いなのか、それをずっと考えていた。

 つまるところそれは、「人間観察」という行為が、人の飾り気のない様子を傍観者としての観察を意味するということが、得も言われぬ気味悪さを持つという点に起因するように思える。得も言われぬと言ってしまうとかなり語弊があるんだけど、まあ直感的にはかなり気持ち悪いな、と感じた所からスタートはしている。

 で、どういう意味でそれは気持ち悪く、僕にとって受容しがたいのか。それは簡単に言うと「視線の優位性」を故意的に作り出そうとする姿勢である。しばしば指摘されることだが、往々にして視線とはその発信源と対象の間で非対称性を持つ。要するに、一方は確実に相手を見ているのだが、見られている方はまるでそれに気づいていない。と、ここまで考えてふと気づく。この構造、端的に言うと「覗き」のそれとまるで同じではないか

 更にそれに輪を掛けて腹立たしいのが、往々にして観察者のほうはまるで珍獣でも見るかのような視線を投げかけるという点である。極端に言えば、往々にして死ぬ気で生きているそれを、貴重なサンプルを発見できたという下卑た歓びを持って観察し、剰え考察まで加えようとする。そこで対象はもはや対等な人間ではなく、珍奇なサンプルという記号性に回収され、観察者はそれを貪り尽くす。

 そしてそのサンプルを溜め込んだ人間は、因果応報、いつの日か気づくだろう。自分もまた見られる客体でありうるということに。そして、その中で同様に自分が珍奇なサンプルとしての記号性に回収されるのではないかという懸念を抱き出す。「人を疑うのはやましい心があるからだ」と過度に一般化して語るつもりは毛頭ないが、このケースに関しては断言できる。間違いなくこの瞬間に、ミイラ取りがミイラになったのだ。視線の非対称性を利用して安寧と快楽を貪った代償として、今度は自分が視線の弱者になるのだ。なぜなら、視線という手段は万人に開かれたものなのだから。

 確かに「状況の奴隷」は見ていて心地よいものではない。しかし、ならば、我々はそこで道標を示すか、最低でもその状況を懸命に生きていることに対する敬意を欠いてはならないだろう。しかし、最善の策はこうだ。見る以上に見られろ。リスクを負え。常に率先して視線の弱者となれ。そして後の視線の弱者の殿(しんがり)となるのだ。そうやって視線の構造が生み出す強者を無効化しなければならないのだ。チャレンジが受容され、苦々しい慣習が旧習となっていくには、そのような視線構造が社会から一刻も早く駆逐されなければならない。