僕として僕は行く。

旧・躁転航路

「美容費が高い女の子とのデートでは男が奢るのが当然」とかいう女は、「女は家にいるもんだ」とか言われてもイエスといえるのだろうか

 ネタにマジレス感があるけれど、この心のしこりを何処かにぶつけなければならないと思ったので、突発的にここに綴ることにした。ちなみに、毎回そうなんだけれど、このブログは思いついたことを突発的に30分ぐらいでばばっと書くので、特に推敲もされてないし、後から読み返して何言ってんだコイツと自分で思う時すらある。

 さて、そういうことはおいといて、僕が突っ込みたいのはコレだ。「女の子が一ヶ月に使う美容費について―はあちゅう主義」。まあ随所で突っ込まれまくってるしネタにされ倒してるんだけど、多かれ少なかれこういう意識をもった女性というのは実は散見されるというのが僕の実感で、まあ別に相手にしなければいいだけの話だし、そもそもサシでこの手の女子と飲みに行くようになる段階まで地雷感を見抜けないのだとすればむしろ男のほうが悪いということで話を締めることも出来る。もしくは、地雷感を見抜いていたとしてもその辺の頭の緩さまで勘案して、つまりコイツと寝るにはだいたいこれぐらいのコストだなという計算がたった上で、かつある程度の心理的なROIが見込まれるときは金を支払うのもやぶさかではないのかもしれない(かなりゲスい話だが、そういう打算をもつことは男性にだって出来るということを知ったほうがいい女性というのは確かにいる)。

 さて、言いたいことの要旨としては正直表題に全て書いてしまった感がある。あたしは男性に消費されることを目的としているのだから、消費するための費用は男性が持つのは当たり前でしょう、という構図だし、そもそもそれ自体は男女間の非常にいびつで不均衡な関係性を前提としている。ある種封建的とも取れるような、消費主体としての男性・消費客体としての女性という古い構図の範疇に収まっているのだ。この手の女が「女は家庭を守れだなんて、セクハラだわ!」などと喚き立てるようなら、失笑モノでしかない。男性サイドに金銭を負担するという明確な負担を押し付けるのであれば、同時に男性が押し付ける女性サイドへの負担も受容されるべきだし、またそういった社会こそが理想的な形であるという主張がそこに暗示されているのでなければ、自己矛盾もいい所になってしまうだろう。

 と、ここまで書いて思ったこととしてあるのは、「いやいや、あたしはあたしの消費される局面や状況を選択する権利はある」とかいうことなのかもしれない。つまり、デートの場面では性として消費されるにしても、それを家庭という狭いスペースで長期的に(半永久的に)消費されることは選択しないと。要するに、どのようなタイミングで消費され、またどのようなタイミングでは拒否するということは消費される側にも選択権があって、短く言うとこれは「一旦セクシュアリティ消費レースに乗ったからといって、完走する必要はない」ということだ。なるほど、確かにこれはある程度説得力のある批判かもしれない。いや、むしろ一度乗ったレースは必ず完走しなければならないと思い込んでいる僕の(悪い意味での)無垢ささえ見て取れるような気がする。

 では、記号性を意図的に消費させている人種といえばたとえばどのような人がいるだろうか、と考えた時にまず思い浮かぶのは、俳優や女優、もしくはアイドルなどといった職業に従事する人々だ。彼らは清楚であること・グラマラスであること・イケメンであること、といった性の周縁的な記号要素を消費させる職業であり、かつある程度自分自身がどのように消費されるのかというのを選択することさえもできる。その上、彼らはそのように性として消費されることに歓びを見出してさえいる。それが芸能人としてマスに出る人々の市場価値の何よりもの証となるからだ。そして、いかに多く消費されたかというのは端的に数値に反映される。その具体例がテレビ番組の視聴率であったり、CDの売り上げ枚数であったり、表紙を飾った雑誌の発行部数であったりする。

 さて、このような人々を前述のような「消費する主体/消費される客体」という二分法で考えるのは非常に困難になってくる。というのも、それはマスの視線を浴びて消費されるという意味では間違いなく客体であるが、同時にその視線をどこに集中させるかについての権力をもつ主体だとも言えるからだ。「視聴者に消費させる」という行為のもつ記号性を消費している、とすら言える。非常に複雑な視線構造を擁してはいるが、要はそういうことで、それが最も体現されている職業というのが俳優・女優・アイドルといった人々である、ということである。彼らは自らを演じ、物語性のなかで自己を開示するという特徴を持つ。

 話が随分と錯綜したが、はあちゅう氏の件に話を戻すと、要はこのタイプの女性というのは、自らのもつ象徴性や記号性を消費させることをアクターとして演じているというわけだ。月7万円の美容費に値し、かつその見返りを受け取るに値するイイ女である自分という、その役割を。

 大衆文化とは、そのように市民が銀幕の舞台に立つ人間にもなれるという妄想を植え付ける装置であって、更に、そこに生産的であること=経済的であること、という資本主義的なロジックが加わったのが恋愛という舞台だ。要は、恋愛という舞台の主人公として、自己を消費させること自体に快楽を見出している道化というのがはあちゅう氏の正体であり、仮に彼女がセクシュアリティ消費レースを完走する気が無い(=デートにおける女性性は進んで消費されたがる一方で、「女は家にいるもんだ」という封建的な女性性のイメージについては拒否する)のだと仮定するならば、それは彼女にとって恋愛という舞台の範疇を越えた別の劇が始まる、というただそれだけのことなのかもしれない。


追記

・僕自体は女性は家を守れとかそういうことは断じて思ってないので、悪しからず。