僕として僕は行く。

旧・躁転航路

スピード

 だいたい中学生の頃ぐらいから人生こんなのがあと何十年も続くのかよダルすぎワロタ早よ死のと思ってたけど、ここ2年ぐらい人生のスピードがめちゃくちゃすごくてさっきおせち食ったところだよなみたいな気分になる。頭が中学生なのでスピードが出ていると嬉しくてテンションが上がる。このままスロットル全開で出来るだけスピード出したまま全力で地獄に突っ込むぞという意気込みが高まっていく。

 ゲームのレベル上げみたいな要領で毎日の繰り返しの中にちょっとだけ経験値稼ぎみたいなの忍ばせておいたらこのスピード感ならあっという間にめっちゃレベル上がってる気がする。ラスボス=地獄にはやはり出来るだけ高いレベルとアビリティで突っ込みたいところ。センチメンタルに埋もれている場合じゃないというのは人生で初めての心境で、そういう感情のドロみを歌にしてしまうことで自分自身は非常にスカッとしているとかいうわけのわからない事態が生じる。竹中直人の笑いながら怒る人みたいな感じで、世の中に対する悪辣な気持ちを歌いながらすこやかな人になってる。しかもスピードが早い。もっと言いたいことがあるけどお前らには教えてやらない。

例えばある女の子がいてその子と僕が仲良くなってきたこともあってか自然と相手のことをお前呼ばわりしてしまったあとに僕がもしこの子と付き合うと何らかの形での暴力を彼女に対してふるってしまうのではないかと一人ドン引きするみたいなことがある

  • バイト先の同僚にすごい美人の子がいるんだけど、美人だなあっていう瞬間よりどっちかって言うと顔が例外的に残念な感じになった瞬間のことのほうが印象に残りがちな気がする、それは僕の性格が根本的に粗さがしに向いてるし完璧なものなど無いはずと思って常に反証を探してるからだと思う、そしてその点探すまでもなく最初から粗が目立つあなた方の顔面は
  • 「お前…いい女になったんだな…」って何となく言ってみたいなとずっと思ってるけどそういった相手もいなければシチュエーションも当然無い
  • 女の子ってかわいく喋る時用の声色みたいなのあるのすごいし、女の子じゃなくてうちのおかんとかばあちゃんでさえも電話で声が高くなるから、女の人というのは何かとすごいな
  • セカイノオワリの音楽自体は何というかつまらないというか記憶に残らなくて面白いことやってるんだろうしすごく凝ってるなというのはわかるけどいまいちピンとこなくて、端的にいうとセカイノオワリ自体は好きじゃないんだけどセカイノオワリ好きそうな女の子はすごくタイプだな
  • 女の子が可愛い日と可愛くない日、可愛い時間帯と可愛くない時間帯というのが恐らくあるっぽくて、具体的にいうと平日の10:07発の特急に乗ると大抵の女の子が可愛い
  • スカートってめちゃくちゃ破廉恥で邪悪な服装な気がしてきた
  • 自分が欲情されていることに対して欲情してしまうみたいなプロセスまだるっこしすぎるしややこしすぎると思いませんか?
  • 暴食って極めて女性的な行為だよねっていう話したらハァ?って顔されたんだけど僕はまだその持論を抱き続けているぞ
  • こないだの日食を父親が何故か所有しはじめていた望遠鏡で見たんだけど赤黒い丸だったので保健か何かの教科書で見た卵子そっくりだった

フィクション

 

某北大生氏とこの人らの違いは、要はフィクションっていう言葉が含みうる範囲の違いでしか無いんだけど、そういうことも全く考慮できない人間が大量にいてのっけから否定されまくってるので、そりゃこんな奴らに囲まれてたら嫌にもなるだろうなという気持ちがする。

 


 

 もう全部どうでもいいわだるいわっていう気持ち、わからない人には多分一生わからないのだろうなという気持ちがする。全部どうもよくなった人でさえも取り込めるフィクションの懐の広さとはみたいなこと最近よく考える。

 

 

 

要は屁理屈やめろって言いたいっぽいんだけど、屁理屈だろうが理屈であってちゃんと反論できないんだったら言う意味ないし、理屈の上では勝ち目ないけど止めさせたいみたいなモチベーションあるなら暴力しかない。理屈はフェイクだけど暴力はフェイクじゃなくてリアルだみたいなこと上のほうの人もいたことだしちょうどいい。

 

 

 

ちなみにフェイクとフィクションを意図的に混同してるのは、僕の感覚で日本語をあてると両方とも「虚構」だからです。ついでに嘘と本当についてちょっと考えた結果思い出したものをいくつか。

永い生涯に於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。−『逆行』 太宰治 

I'm not here
This isn't happening
I'm not here, I'm not here

−『How To Disappear Completely』 Radiohead 

単なる離人感とも言えるし、『健常な』感覚で言えば無責任とかそういうことになるけど、この手の感覚がわからない人はずっと多分わからない。一生、自己効力感という「フィクション」の中で生き続けられることこそ何よりも恵まれているとかいう逆説教かましたい。

 

あとあんまり関係ないけど、数年前に見て全然しっくり来なかった『パルプ・フィクション』は今見たらだいぶ違ったりするのだろうか。

 

 


 

 

自尊心

 自尊心について、なんかいきなり閃きがあったのでメモしておきたい。自尊心、自らを尊ぶ心、これがあるということは、当然ながら、自分の中に自分に対する尊敬の念があるということだろう。これは要するに、自分の中に、自分よりも凄い自分を住まわせるということだと思う。

 自尊心がちゃんとある人、自己効力感の高い人は、人生のなかで、さまざまな葛藤に大して勝利を積み重ねてこられた人だろう。だから、僕が他人に「自尊心が低い」と言われるのもかなり正鵠を射ていて、僕の人生が水が低きに流れるが如くだったという自己敗北感がにじみ出てくるのが原因だと思う。

 別に自信に満ちた人生が送りたいとかそういうことではないけれど、自己効力感は低い割に歪んだプライドは高いから卑屈だと思われたくないので、自己効力感の低さがにじみ出て来ない程度にはどうこうしていきたい。

重心のずれたボール

 今まで本当に純粋な恋心で男女交際のようなものをしたことないのかもしれない。マセガキだったので中学も高校も学年が跨るくらいには長く付き合った彼女がいたけれど、その時だって今思えば、社会のレールにちゃんと乗れている自分みたいなのをどこかで意識していたように思う。イニシエーション的なものをちゃんと通過して、社会の歯車の一つになれている自分に安堵を覚えたかったようなところが無かったかというと、甚だ自信がない。

 なんでそんなことをする必要があったかというと、実は自分が社会のレールから外れそうな側の人間だという自覚が実は既にあったからだと思う。社会という細いレールの上を、一人でちゃんと転がっていくには、僕というボールの重心は中心からズレていた。だからこそ、ちゃんと重心の整ったボールと並走することで、自分もレールの上をまっすぐ走ることができるという自信や確証のようなものが欲しかったのだ。今となっては、それがいかにまやかしなのかもわかるし、もうそんなこと望んでもいないのだけれど。

 そんなことを、「小さな恋のメロディ」という映画を見ていて思いました。あれぐらい、重心がど真ん中にあるカップルだって多分いないのだろうけれど、少し自分と照らし合わせたりしながら。

「至上の愛 第四章:賛美」〜 Hunter x Hunter 第135話「コノヒ×ト×コノシュンカン」感想と考察〜

※ネタバレ注意

 

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 漫画で何回も何回も読んでたから話はもう熟知している。それでもやっぱり心より感動して、うち震えてしまった。人間ですらない異形の者と、目の見えない人間のラブ・ストーリーは、人間嫌いの冨樫がそれでも愛というものの可能性に賭けてみる挑戦だったのだろうし、そしてそれを描き切ったこの物語は、アニメにしかできない演出の妙で更なる深化を遂げた。

 そもそもメルエムとコムギの出会いの段階において、コムギの目が見えないことは大きな要素だった。囲碁や将棋などのチャンピオンたちは、目が見えてしまう故に、メルエムという異形の対局者を前に、まず本来の実力など出しきれないまま敗北し、そして殺されていった。メルエムにとって、自分に打ち勝てない者など、ゴミ同然であった。そうして順番に様々な娯楽のチャンピオンを倒していったメルエムの前に現れたのが、この全盲の少女だった。彼女は全盲ゆえに、異形の王を前にして怖気づくこともなかったし、また全盲ゆえに軍儀で勝ち続けること以外に人に認められる方法を持たずに育ってきた。具体的にそういった描写があったわけではないが、メルエムにしてもコムギにしても、「戦いの中で勝ち続けること=最も強い者であること」以外にアイデンティティを持ち得ない存在であるから、そういった点で、特にメルエムからコムギへの共感を覚えていったのではないだろうか。

 しかしながら、上のキャプチャからもわかるとおり、二人の最期には、コムギはメルエムの手をとり、膝枕をしてやっている。そう、コムギがメルエムに触れているこの時点で既に、もはや目がみえなくとも、コムギはメルエムが人の形をしていないことをわかっているのだ。しかしそれでも彼女は、ベッドサイドの母親が我が子に言うように告げる。「おやすみなさい、メルエム」。

 キメラ=アント編終盤でくりかえし述べられる、「人と蟻でいったいどこが違うのだろうか」という問い。互いを認め、求め合う心さえあれば、きっとどんな二人/二匹/一人と一匹の間にだって、こんな幸せな時間は生まれうる。たしかに二人の間には生物学的な意味での子孫は望めなかったのだろうが、しかしながら二人の間には、確実に共同作業によって産み落とされた子どもがいた。その名を「狐狐狸固」と言う。この子どもは、一度はメルエムと出会う前のコムギによって産み落とされ、そしてコムギ自身の手によって葬られた。そして次に、コムギとの対局を繰り返すなかでメルエムがもう一度蘇らせて、そしてまたもやコムギの手によって葬られた。二度も我が子を自らの手で殺めたコムギの悲痛はもはや想像の及ばない領域だろう。だからこそ、だろうか。彼女は最期の最期に、もう一度この子を産んだ。しかしながら、今度はもはや、誰もこの子を殺めることができなかった。新たに生まれた狐狐狸固に対し、メルエムは逆新手ですぐさま殺しにかかるが、コムギはそこに逆新手返しで、局面を決定的なものにした。コムギは、三度生まれ変わった我が子(=狐狐狸固)をようやく殺めずに守り抜くことが出来たと同時に、早くも我が子が「父殺し」を行う瞬間を眼前に見ることができた。一人の母として、これほどまでに栄えある瞬間があるだろうか?だからこそ彼女は言ったのだろう。自分がこんなに幸せでいいのかと。自分にこんなに幸せなことがいくつも起きてもいいのだろうか、と。メルエム=「全てを照らす明かり」は、生まれつき光のない少女の人生にさえも、まばゆすぎるばかりの明かりを灯したのだ。

 そして、そのメルエムという名さえも、「自分に名前があるのだから総帥様にも名前があるはずだ」というコムギの別け隔てない心から彼に尋ねたものだったし、そういった彼女の心がメルエムの中に「アイデンティティ」=「自分はいったい何者なのか」という概念を成立せしめたのである。そう、メルエムとコムギは、いわばお互いが完全に補い合う関係にあった。二人/二匹/一人と一匹で過ごした時間は長くはなかったのかもしれないけれど、どんなラブ・ストーリーの二人よりも濃密で圧縮された時間を過ごし、互いを癒やし合い、成長させあった。

 だからこそ、自分と共にいればお前の命も危ういと言うメルエムに対し、コムギは一切の躊躇なく添い遂げる意志を至福のなかに示し、二人の思いは一つになる。自分はこの瞬間のために生まれてきたのだと。自分の一生は、戦いで勝ち続けるためなどでは決してなく、同じ孤独の中に生きてきた者と共に生き、そして死んでいくためだったのだと悟る。こうして二人の物語は幕を閉ざす。

 この物語を更に深化させているのが、アニメ上の演出だ。いつもの幾分か脳天気すぎるオープニングムービーは省略され、コムギの居場所を確かめるためにパームの元へ歩みを進めるメルエムの画のうえに載る最小限のクレジットから物語は開く。これはアニメの最終話の幕開けなどで伝統的に使われてきた手法だが、やはりただならぬ物語が繰り広げられる予兆を感じる。そして物語は進み、まずはコムギの「ワダすはきっとこの日のために生まれて来ますた」、そしてすぐに続いてメルエムの「そうか 余はこの瞬間のために生まれて来たのだ」という台詞からすぐにBGMを引っ張ったままエンディングのスタッフロールに。この回のために用意されたであろうエンドロールのバックアニメは、彼らの出会いから始まり、彼らが過ごした時間が一つずつ回想されていくのだが、それが泡のように丸く繰り抜かれ、次々と上へ上へと流れて消えていく。これはまさに、クロード・アネ原作で、幾度となく映画にもなっている「泡沫(うたかた)の恋」のタイトルにかけたような演出となっており、彼らが過ごした時間の淡さや切なさが一つずつ泡となって消えていく。そうだ、この二人/二匹/一人はもう、死んだのだ。だから彼らの愛の物語は、もうここで終わりで、続きは無いのだと、否が応でも気付かされる。そう思うと何か耐え難い思いが胸にいっぱいになっていよいよやり場がない。もしあの世というものがあるのならば。彼らにはどうしても幸せになっていてほしい。あの世というものがどうか存在していてほしい。フィクションの中だから、きっとそういうものがあったって、おかしくはないはずだ。その可能性に賭けたい。なぜなら、僕はこれより美しい愛の物語を見たことがないのだから。

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 アニメにしても、原作にしても、僕の「HUNTER x HUNTER」はここで終わりでいいと思った。僕にとっての「HUNTER x HUNTER」は、至上の愛を描いた最高の作品として、永遠に残り続けて欲しいからだ。だからこそ、僕はこれから先の人生で行き詰まった時に、今まで感想を述べてきた、彼らの物語の最終話を見なおして、また生きることに賭けようと、決意を改め続けていくのだろう。

 


A Love Supreme, Pt. 4 - Psalm - YouTube